このページは、佐藤正美氏(https://twitter.com/satou_masami)のツイッターでの発言の抜粋です。モデル論の中でもわかりやすい発言を中心に抜粋しました。

古い発言は、中川氏がtogetterにまとめて投稿して下さっていますのでそこから引用しました。

■E.F.コッド氏の論文

2014/05/30 6:41 に 旧環境IT勉強宴会 が投稿   [ 2014/05/30 6:41 に 佐野初夫 さんが更新しました ]

E.F.コッド氏の論文をぜひ読んだほうがいい。さもないと、データ設計の入門書を読んでそれを知ったつもりになって簡単に片付けてしまうSEがいても、黙って聴いていなければならないだろうから。要約された論をうっかり信用してはいけない、「完全な」設計法を実見するに越した事はない。

データ設計の世界では、「これは正規形だ、これは正規形ではない」という判断基準があるのに、事業分析のモデルでは、DOAだとかOOAだとかという狭い概念規定の上に立って異を唱えているだけで、「これはモデルだ、これはモデルではない」という裁定が全然為されていないのは変な事ではないか。

他人に先んじて外国文献を祖述し、最新技術を習得したように錯覚する。そして、他人を後れているとして攻撃し説教する。輸入技術を追う者が先ず陥る罠(指導者意識、先駆者意識)である──自身が消費財とみなされている事とも知らずに。
(20140216_28  http://togetter.com/li/637101

■モデル論の原点

2014/05/30 6:41 に 旧環境IT勉強宴会 が投稿   [ 2014/05/30 6:41 に 佐野初夫 さんが更新しました ]

1995年以後、仮にも「オブジェクト指向」的レッテルが貼られなくては時代遅れの技術とみなされる他なく、原論などというものは少なくとも実務界では認められなかった。私は、意味論を重視するDOAから離れたが、流派(DOA、OOA)というものを拒否する態度をとったという自負がある。

30才代の頃に私をうきうきさせ、その後で私を苦しめたモデルらしきものは、実はモデルではなく、記述的意味論を拭い切れていない事がわかってきた。「構文論が先で、意味論は後」こそモデルの要件だと考えるに至った。そして、記述的意味論に愛想をつかし、DOAからは絶対に訣別しようと決心した。

拙著「論理データベース論考」は、SEたちが口をつぐんでいた事を暴いた無作法さと、そういう事に論理的決着をつけようとした焦りが混っている。今になってつくづくわかるのは、あの著作こそ、私が正にモデル論に向かおうとしてその基礎を書きえた書物だが、これを書いた事は妙に自信をつけた。

「論理データベース論考」──あのような大仰な書名については、若気の至りとしか言いようがない。しかし、あんな書名を付けてから13年が過ぎて、あれを読破した読者は10人もいまいと想像する。その本文のほうは──「ゲーデルの定理」(モデル論の原点)を読むための基本知識のまとめである。
(20131201_15  http://togetter.com/li/604772

■大雑把な概念地図を描く必要もない

2014/05/30 6:39 に 旧環境IT勉強宴会 が投稿   [ 2014/05/30 6:39 に 佐野初夫 さんが更新しました ]

モデル論は1930年代に登場した。理論は実用化されることによって、その身を危うくすることもあるが、しかしまた生命を帯びる。そうやってこそはじめて理論は活動的になる。一つの理論を学ぶことは或る考えかたを迎え入れることである。理論は一つの実践を促す。私はそれを忘れてはいない。

モデル論に必要な考えかたは70年前に尽きていたかもしれない。我々はただ古い薪に新しい炎を点すだけであろう。天才たちが論じてきた事を実践する以外には我々凡人にはたぶん何一つ為すべき事は残されていないのかもしれない。技術を拡充するために理論を学ぶ、それがエンジニアの職責である。

僅かの「概念」を起点にして事業を演繹しようとする! 私にはこれがたまらなく嫌なのだ、この演繹法というやつが。高い所からいったい何が見えるというのだ。今の仕事を何とかしなければならないという時に、なにもわざわざ遠近法を違(たが)えて大雑把な概念地図を描く必要もないじゃないか。
(20111001_15  http://togetter.com/li/201809

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